●私と同じく我が子を無くした方とお話しする機会がありました。その方とは、ある集会で、数年前にお会いしたことがありました。
今回その方からお電話があり、お会いすることになりました。
二人とも30代の娘を見送りました。私は2016年の12月に。悲しさ・寂しさは固より、喪失感、自分を責める気持などとともに暮らしてきた数年でした。
「親などが一定の年齢に達して亡くなるのは、もちろん悲しいのだけれど、人間の順番だよねと納得のさせようがある。でも若い我が子を失うと納得させようがないのよね」「娘の顔を見て思ったわ。こんな若くてきれいな顔で逝くなんて絶対間違っている」等の言葉を交わしながら、どれもこれも二人の実感でした。
●その方は、悲しみを共有できる集まりなどに参加しながらも、「その先が問題なのよね」とも。そしてブログでご覧になったのか、娘が亡くなった直後、私が葬儀を控えながら議会で質問をしたことに驚きを覚えたそうです。
私は、議員の仕事は有権者から託されたものという思いがあり、特に気負いがあった訳ではなく、自然にそうしていました。共産党の貴重なそして僅かな質問時間を欠席で失うことなんてとてもできないという気持ちもありました。
私の選挙で最大限の応援をしてくれた娘の優は、私が議会の質問のために傍を離れることは認めてくれるだろうとも思いました。
でもさすがに、質問を終え家に向かう電車の中では、泣けて泣けて仕方がありませんでした。
やはり、質問の間緊張していたのでしょうか。
●また、葬儀から間もないあるつどいで、「無理しないで」と心配する仲間に「娘の悲しみと政治状況に対する怒りは別ですから」といったこともありましたが、これも自然に出てきた言葉でした。
一方で思い通じる仲間にあえば涙の連続でした。亡くなって一か月後の合唱団「いちばん星」のコンサートでは、ある方がずーっと手を握ってくれるとその優しさに涙があふれ、歌声にも涙があふれ、舞台はにじむばかりでした。
別の場でも会場の方に挨拶で回ると、あっちでもこっちでも涙、涙で、目は真っ赤に。
あ、そうそう、1月の党大会に参加した時もそうでした。久しぶりの方と挨拶を交わしながら、涙の連続でした。
泣きながら走った数年でした。
●つまり、私は優の悲しみを常に抱きながらも、その悲しみに全て覆われることは無く、議員を初めとした活動ができたように思います。
それは誠実に生きようと思えば、私にとっては自然なことでした。悲しくても悪政は許せなかったし、共産党の議員に寄せられた現実の問題にはできるだけの対処をしたかったからです。
でもこの方とのお話し通じて、それが当たり前ではないことに気づきました。言ってみれば、一日中その悲しみに縛られているような苦しさや辛さもあるという事です。
私の場合はなぜ?と考えると、人間が大事にされる社会、命を全うできる社会にしたいという思いが、悲しみと同じくらい強かったからでしょうか。
今回、「悲しみを共有したその先」を求めるとことから始まった二人の交流は、人間の「悲しみと日常の共存」を改めて捉え、私自身の6年間を振り返る機会ともなりました。
亡くなったお嬢さんについては、また別の機会に。(2022.1.20)