●小池汪さんの写真展「戦争暮らし」については、以前ブログに書きましたが、10月7日から30日にわたって開催されました。
その締めくくりの会が、12月9日に開かれました。運よく私の委員会開催日ではなかったので、参加させていただきました。
●事務局の方々には、会議を重ねながら、小池さんの問題意識の共有、それに基づく展示や企画の構想、協賛団体の依頼・確認、広報、平和館との打ち合わせ、開催期間の体制確保など、精力的に進めていただきました。
マスコミ報道は東京新聞(2回)・読売・朝日・タウンニュース各区版。入場者969名。展示作品177点。週末トークも毎週行われました。
●この日集まった方々からは、準備段階のことや本番の感想などがこもごも語られました。
私は、小池さんの執念が詰まった写真展だったことと上原家の印象が鮮烈だったことを語りました。
「きけわだつみのこえ」にも編まれている一番下の息子良治さんは、特攻隊員として、1945年5月11日沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入戦死。22歳。良治さんの二人のお兄さんも戦死し、妹さん二人が残りました
私はこの事を写真展で知り、両親は三人の子を殺され、戦後どのように生きてこれたのだろうと、途方に暮れる思いでした。
●「鮮烈」だったのは、家族揃った写真の笑顔があまりにも輝いていたからです。全員が笑っています。どれ程幸せだったことでしょう。お母さんの優しい笑顔…。
上原家の写真はもう一枚あります。その写真では、仏壇に3人の胸像が置かれれています。
この日の集まりに、上原家のことをよく調査している方がいて、この3人の並び方が年齢順ではなく、いつも食卓で並んでいた順番だと聞いて、私は胸を突かれました。
お父さんとお母さんは、三人の息子と食卓に向かっているつもりで、毎日仏壇に手を合わせていたのでしょうか。どんなにかその再現を願ったことでしょう。
●上原良治さんは、帰郷した時、妹さんに語っていたそうです。「靖国にはいかない。俺は天国に行くよ」と。
「わだつみのこえ」にも「私は明確に言えば、自由主義にあこがれていました。(中略)それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思います。(中略)人間の本姓にあった自然主義を持った国の勝ち戦は、火を見るより明らかであると思います」と記しています。
自由に羽ばたくことを願いながらどれだけ多くの若者が散っていったのかと思うと、胸が潰れそうです。
この日は亡くなった私の娘の4年目の命日でもありました。
●多くの方からこの写真展の写真集を出してほしいとの声が寄せられています。また小池さんは、川崎公害の写真や書類が散逸しないかと、公害関係もまとめなければ、と話されていました。
さらに、75年前に小池さんのお父さんが建てたという民家の前には、大きな木がうっそうと茂っています。この庭を、小池さん亡き後もこのまま残したいから、財団をつくり、記念館とともに管理を委ねたいとの構想も語られました。夢は膨らむばかりです。(2020.12.9)