●第30回を数えた「子どもの未来をひらく川崎集会」、私たちの周りでは、「未来集会」としてすっかり定着しています。
今年も、全体集会しか参加できませんでしたが。
●全体会講師は、宮澤弘道さん。東京の小学校教師。
冒頭、「僕は、神戸市の教師いじめの報道、驚きませんでした。珍しいことではありません。現に僕は、17件もの相談を受けています。リストカットをしながら、教壇に立っている先生もいます。」
子どもたちだけではなく、教師がどんなに苦しい状況に置かれているかを、物語っています。
●続いて、子どもの心を大切にするためには、「学校文化を乗り越えなければ」と。
「学校文化」例えば…
*「元気な挨拶」-挨拶は元気でなければいけないのか。元気がない朝だってある。大きな声を出したくない子供だっている。
*「40人全員で仲良く」-全員が仲良くなければいけないのか。好き嫌いがあるのは当たり前。互いの人権を尊重していればそれで十分。
*「授業の始まりと終わりの全員で行う挨拶」(様々なルールがある)-これがなければ、学校に来られた子がどれほどいたことか。
●なるほど「学校文化」ね。軽いカルチャーショック。
私は「元気な」挨拶に疑問を持ったことがありませんでした。また「仲良く」も標語的に聞き流していました。
でもこのような「文化」に、苦しんだ子ども達がいたことを思い知りました。またヘタな規範にも繋がっていたんですね。
この後に語られる道徳の原型にもなりがちです。
●「日本の国家観では、国の中に個人が内包される。道徳は国家体制を維持する装置となる。だから道徳は、各教科の要ともなる特別な教科」と。
教科となって採点の対象となることは、大きな問題です。
道徳の教科書は様々な逸話を示し、その態度への評価を求めます。一応「考えてみよう」という投げかけの形式は踏んでいますが、採点となれば、自由な捉え方が入り込む余地はかなり狭められ、国が考える方向性に沿ったものになりがちです。少なくとも同調圧力にはなるだろうと。
●宮澤さんは、内面に入り込まない授業の大切さを語ります。
中断読み授業(教材の葛藤場面までで中断し、教科書から離れ一人一人が創作する)の実例を交えながら語られましたが、本当に柔らかな子供の心を感じることができます。この柔らかな心が、次第に国家観を背負った「道徳」に同調させられていくとしたら、行き着く先が見えてきます。
宮澤さんが、黙っていられないゆえんです。道徳教科化の問題で、全国を駆け巡っています。通知表から道徳の評価欄の削除を求めています。
宮澤さんは、「教師には理想を語る義務がある」と結びました。さわやかで頼もしい若者です。(2019.12.1)