●長い闘いが続いています。山崎正則さんが、突如、妻である佐藤好重さんを米兵に殺された2006年1月3日から11年と10カ月余り、山崎裁判勝利報告集会が17日行われました。
●悲しみと怒りの中から裁判に立ち上がる決意まで様々な逡巡があったと聞きますが、その年の10月20日、山崎さんは加害米兵・米軍・日本政府の責任を問い横浜地裁に提訴しました。
2009年5月20日の判決は、加害米兵に約6500万の賠償金支払いを命じ確定しましたが、現在1円も支払われていません。
日本政府に対する請求は棄却されたため、山崎さんは控訴しましたが、東京高裁は2012年6月20日、最高裁は2013年6月26日、それぞれ棄却しました。
●その後も、他の事件を含め米政府が提出してきた示談書をめぐるやり取りが続きます。
示談書には従来、事故または事件による損害金を支払う条件として「日米両国政府及びその職員、代行者、被用者を永久に免責する」との記載があり、示談当事者ではない日本政府まで免責するのは不合理として、国会質問や防衛省交渉などが行われてきました。
その結果、2015年7月山崎さんに示された示談書では、日本政府を免責する文言は削除されていました。この点は大きな成果です。
また、米兵の免責も問題です。この点では、2016年11月赤嶺政賢衆院議員の質問に対し、稲田防衛大臣が「加害者を永久に免責するというのは非常に表現としても配慮が足りないと考えますので、直ちに修正等を働きかけるなど適切に対応してまいりたい」と答弁しています。米兵についても免責文言を削除することが、今後の課題です。
●これらの経緯を経て、山崎さんも示談書に署名をし、一定の区切りをつけましたが、米兵犯罪根絶の闘いは続きます。
集会では、今までの闘いの意義が確認されました。
大きな一つは、山崎さんの闘い以降「泣き寝入りしない」が合言葉になり、裁判含めた闘いに立ち上がる人が増えてきたことです。在日米軍関係の事件・事故は20万9109件(1952年~2012年、但し施政権返還前の沖縄を除く)、うち1090人が死亡していますが、殆どが泣き寝入りで見舞金も極めて不十分だったといいます。
大きな意義の2つ目は、勤務時間外の事件についても米軍の監督責任が問われるという、民事上の責任を明らかにした判決を得たことです。
意義の3つ目は被害者救済の運用を改善させたことです。その一つは、免責対象から日本政府を除かせ、さらに米兵に対する免責削除の足掛かりを得たこと、2つ目に、米側見舞金と確定判決額との差額を日本政府が支払う努力をすべきとしたことです(SACO見舞金制度)。
裁判闘争は固より、国会内外の多くの仲間と手を結んだ闘いは、多くの成果を作り出しました。
それらの喜びを、沖縄を初めとした全国の仲間と共有しながらも、大切な人を奪われた山崎さんの無念は続きます。(2017.11.17)