●「川崎中原の空襲・戦災を記録する会」により、毎年開催されている中原空襲展。
会の方は、毎回新しい工夫を凝らし、おかげさまで私も毎回新たな認識を得ることができています。
今回のそれは「西畑村事件」でした。
●川崎の最も大きい被害は、1945年4月15日の川崎大空襲。東京川崎・横浜の空襲で対空射撃を浴びたB29は、房総半島に墜落。爆撃機200機のうち11機が墜落したとされています。そのうちの1機が西畑村(現大多喜町)に墜落。
墜落により搭乗員12人のうち2人が死亡。10人は捕虜となり東京陸軍刑務所(渋谷区宇田川町)に収容されます。ところが10名の内、8名の捕虜は5月25日の山手大空襲で焼死。この時施錠したままで捕虜が逃げられなかったことを問われ、所長以下5人の職員には死刑判決。
残りの2人のうち1名はパラシュート降下後、西畑村で斬殺されました。殺害したとされる日本軍兵士は戦犯裁判で12年の有罪判決。この時、地元住民も米兵に危害を加えたとして厳しく追及され、事情聴取の帰り道で自死。
生還したのはたった一人。
●川崎大空襲の裏にこんな事が進行していた…大空襲の加害者が墜落し一人を除いて全員命を落とす、しかもその死は新たな死を呼び込みながら…加害と被害が錯綜する戦時下の異常を思わないではいられませんでした。8人は米軍の空襲で焼死するのですから。
●会のTさんの説明をお聞きしながら、この貴重な会の営みにも改めて敬意を覚えます。
Tさんは来年のことも口にされていましたが、新たな空襲の記録を発掘する作業が、また始まります。
●地元の私たちには「初耳」ではありませんが、他地域の方は知らないと思いますので、中原平和公園のいわれもお知らせします。展示にもありましたので。
東京航空計器(株)があった場所は、戦後米軍が接収し、木月米陸軍出版センターとなりました。ここではベトナム戦争などでも使われた謀略ビラなどが造られていました。偽札なども印刷されていたそうです。
1975年に全面返還、川崎市平和館と中原平和公園、住吉高校に生まれ変わりました。
戦争中は空襲を浴び、戦後米軍の謀略施設となり、返還後は、住民運動の力も大きく寄与し、川崎で平和を語り継ぐ場所となりました。中原区における一つの平和を願うシンボルともなっています。(2024.4.17)