【ベトナム報告⑦】
20日はクチを訪ねました。ホーチミン市の中心から車で約1時間半。
ここは、南ベトナム解放軍兵士が造り、暮らし戦った地下トンネルで知られています。
トンネルの長さは実に250キロ。三層に造られ、地下3メートルの一層、地下6メートルの二層、三層は地下8メートル。
次第に狭く細くなり一番下は腹這いで動くような状態です。
でも診療室や会議室まであり、この室内は人形で再現されていました。映画室もあったそうです。
希望すれば入ることができます。私はもちろん入口も病室・会議室も、屈まなければ進めない低いトンネルも入ってみました。
50センチ四方の地面の様な蓋が付いた出入り口も通ってみました。蓋の上には本来草木が置かれ、周囲と区別がつきません。
小さい私がようやく通れる大きさでしたが、男性兵士も使用していたというのが驚き。
地層が固く、掘るだけでトンネルが出来たそうですが、この長さです。掘り出した土の処理を含め、苦労は計り知れません。
真っ暗な狭いトンネル、ここで長きに渡りくらし戦う、想像を絶する粘り強さです。
常時5千人、多い時には1万5千人が暮らしていたそうです。
台所もあり、煙は米軍に気づかれない様に離れた場所に、しかも分散して流れる作りに工夫していました。空気穴や排水のために川につなげる工夫も。底知れぬ力です。
トンネルの工夫に限らず、米軍の不発弾から地雷を作る、車両などのゴムからサンダルを作る、銃弾からライターを作る等々、彼らの発想の豊かさ、器用な手先、尽きることのない体力には驚嘆します。
なぜトンネル生活をしたかといえば、米軍の攻撃を避けるため。
密林で活動する解放軍を一掃するために、米軍は枯葉剤やナパーム弾で焼き尽くしました。それでもこの地を離れず、地下を拠点として戦いました。
現在は緑豊かに樹木が茂っていますが、35年前の植樹によるものです。戦争時には草木一本も残らない焼け野原状態でした。
枯葉剤の影響は広範に存在し、障がいを負う人達への補償と生活保障は十分にはできていません。
仕事が可能な人の授産施設が、近くに設けられていました。貝殻やアヒルの卵の殻を貼り付け、漆加工をした工芸品が作られています。
戦争は、その最中は勿論、戦後も実に重い荷を人々に負わせます。ベトナムの数日、戦争の実態を痛いほどに突きつけられました。(2023.8.20)