●「煙突男」という呼び名は以前から知っていました。今回、その「男」というか田辺潔(1903-1933)さんをテーマにした舞台「おーい!煙突男よ 天空百三十尺の風」を観ることができました。
●何故、田辺さんが高さ40mの煙突に上ったか。
1930年の富士瓦斯紡績川崎工場では3000人ものいわゆる「女工」が働いていました。
仕事場は熱気と湿気と埃、12時間交代の長時間労働、粗末な食事、まさに「女工哀史」そのものでした。結核が多く発生したといいます。1929年から始まった世界恐慌の真っ只中、会社は賃下げと解雇を強行しようとしましたが、女工たちはストに立ち上がります。争議が暗礁に乗りかけた時期、1930年11月16日に、田辺さんは、この工場の煙突に上り、争議の解決と女工の労働条件改善を求めます。
天皇の列車が煙突の下を通過することになり、「天皇を見下ろすことは許されない」と、会社は要求をほぼ受け入れ、争議は解決。田辺さんは130時間ぶりに地上に降り立つことになりました。
●私は、アーさすが川崎だなあと思いました。過酷な条件で働かされる労働者群、そこで敢然と起ち上げるストライキ、争議解決のために身を賭す存在、それを見守る市民。当時人口10万人の川崎で、煙突の下には1万人の人が集まったといいます。
胸が熱くなります。「川崎の原点は工業都市」ともいわれますが、労働者の苦渋と誇りが息づいていたと思います。
当時12歳の「女工」もいたとされています。労働者の町川崎には、農村から多くの人達が労働者として送り込まれてきました。日本の歴史そのものです。
彼は、富士瓦斯紡績で働いていたわけではなく、いわば「忽然と現れ、忽然と消えて行ったかに見える」(作者の和田庸子さん)存在です。彼はこの出来事の3年後、1933年2月14日横浜山下公園近くの掘割で、遺体で発見されました。6日後の2月20には小林多喜二が拷問により殺され、翌年9月に満州事変に突入。このような時代を生き抜いていった「煙突男」。
●この内容に感じ入るとともに、上演自体にも思うことがあります。
この舞台は、第8回川崎郷土・市民劇の演目として上演されています。川崎郷土・市民劇は、「川崎の歴史や歴史上の人物を取り上げた創作劇を上演することで市民文化の向上図り、町の活性化に寄与する」ことを目的として2006年に始まりました。川崎市の補助金、国の芸術文化振興基金に支えられ、出演者は、劇団・演劇人・市民に対する公募によっています。
また、幅広い団体と個人に支えられていることも特色です。いわば保守から革新まで。
実行委員会主催ですが、川崎市や川崎市教育委員会が共催となっています。実行委員会には、自民党の国会議員であった人・区役所副区長・町内会連合会会長・文化協会関係者や、川崎文化会議議長などが名を連ねます。
このような成立ち、全国的にも稀有な存在だと思います。川崎工業地帯が生み出した争議をテーマとした内容、そして、これらをつくり出し舞台に送り出す力、川崎の魅力を実感しました。(2022.5.7)