●第60回平和行進が始まっています。7日に東京から神奈川にリレー旗が手渡され、8日は中原区に。私は中原区の老人演芸大会に参加し、午後の平和公園からの参加となりました。
●1958年に始まったこの行進、以来60年間、全国の自治体をつないで被爆地に「核兵器のない世界」への思いを届けています。毎年、全国で約10万人が参加しています。
昨年7月7日、国連で核兵器禁止条約が採択されました。また朝鮮半島の非核化めぐる情勢も急展開で進展しています。
今年は「1日も早い核兵器禁止条約の発効」と「日本政府がそこに加わること」が平和行進の熱い願いです。
●平和公園はお昼休憩のポイント地点。ここでは中原原水協や中原新婦人の皆さんが、毎年おむすびをどっさりと作って、参加者に提供します。全労働の組合員であった頃、県内のほとんどの地域を行進しましたが、おむすびで迎えてくれるところは、ここだけ。中原の住民として鼻高々でした。
●毎年「平和公園と平和館ができるまで」が、参加者に語られます。
戦前、中原区には軍需工場が多く、この地には東京航空計器がありました。戦後米軍が接収、極東一の出版センターがつくられ、朝鮮戦争やベトナム戦争時には、心理作戦部隊の謀略ビラや偽札がつくられていました。
1965年から基地返還運動が起こり、1967年、東住吉小学校の児童が基地の車にひかれて死亡したことから、綱島街道に歩道橋をつける運動も始まります。この時、橋の橋脚部分をつくるために基地の一部を、粘り強い取り組の結果、返還させています。
1970年当時、高校増設運動が、川崎では盛んでした。基地返還と高校増設の運動が結びついて、請願署名や陳情行動が精力的に取り組まれ、議員や川崎革新市政の働きかけと相まって、1975年には全面返還を実現させます。
●そして、1980年には県立住吉高校開校。1982年、川崎市は政令市初の核兵器廃絶平和都市宣言を行い、この地に碑をつくります。1983年には、平和公園が開園。「平和をきずく市民のつどい」がこの時から毎年行われています。平和館建設の要望も出され、1992年には完成します。
野外音楽堂では「平和コンサート」、平和館では「平和をきずく市民のつどいが毎年行われ、最近では二ケ領用水の「灯ろう流し」や2012年以来の「原発ゼロのカウントダウン集会」も行われています。
まさに「平和の砦」です。
●この歴史を聞く度、川崎市民であることを誇りに思い、素晴らしい運動を繰り広げてきた中原区の先輩に対する敬意を新たにします。
この地域発の強い願いの一つに「県立住吉高校の改修」があります。傷みが激しい外壁初め、少しでも生徒が気持ちよく過ごせるように、と願う住民の眼差しはあくまでも優しく、私も改修への思いを強くします。