●かけ歩きのブダペストから、急行列車EC(ユーロシティ)に乗りプラハへ。ハンガリー、スロバキア、チェコと通り抜けるので、車窓からの風景は、微妙に変化します。約7時間を要し、プラハ着は4時すぎ。
民謡と踊りを楽しみながら、飲み食べるお店で、ほぼこの日は終わり。
チェコの人、明るい! 民謡などで盛り上がるのを見ていると、他国の支配なんて、絶体いやだよね、いや無理だよね、と改めて思った次第。
●翌12日は、ヴァーツラフ広場へ。「プラハの春」弾圧の舞台ともなった広場です。
国立博物館を背にして広場を見渡せば、ここに戦車が連なって銃撃戦が行われたことに戦慄を覚えます。
1968年1月にアレクサンデル・ドゥプチェクがチェコ共産党第一書記に就任。市場機能の導入、言論や芸術活動の自由化など含む行動綱領が採択され、プラハの春と呼ばれる新しい動きが起こります。
これに対し、ソ連は、ワルシャワ条約機構軍を率いて軍事介入。8月21日には、ヴァーツラフ広場は戦車に占拠されます。
市民は、投石やバリケードで抵抗しますが、侵攻はチェコスロバキア全土に広がり、街にはたくさんの死体が重なりました。
69年1月には、カレル大学の学生ヤンパラフが、軍事介入に抗議し焼身自殺。その碑も広場正面の国立博物館前に創られています。
プラハの春は、70年の改革派の除名により終焉を迎えます。
●この事件は、まだノンポリで政治的知識もない受験生だった私の記憶にも、残っています。軍事介入に戸惑いを覚えました。
少なくとも、チェコのことはチェコに任せておけば、このような悲劇的結末には至らなかったでしょう。
「社会主義」ともいえないほどの未熟さとスターリンの大国主義が相まって、多くの悲劇は生み出されました。それは今なお暗い影を落としています。
●この68年の出来事から50周年に当たる今年、街には、スクリーンやパネルが設置され、この悲劇を伝えています。これらに見入る人は少なくありません。
市民は、どのような思いで、50年前の出来事を見ているのでしょうか。(2018.8.12)