●キャパの写真館を後にして、「ハンガリー動乱」の舞台ともなった国会議事堂前広場へ。
1953年にスターリンが没して以降、フルシチョフのスターリン批判を契機として、ハンガリーにも一党独裁政治などに対する批判とともに、政権への不満も大きくなり、大規模なデモ・集会が行われました。ワルシャワ条約機構からの脱退も叫ばれるようになり、ソ連軍の介入するところとなりました。
●1956年の10月25日には、国会議事堂前のコンシュート広場に集まった非武装の市民に対し、周囲の建物の屋上から機関銃の一斉射撃が行われました。射撃は10分以上も続き大量殺戮の場となりました。
当時、ソ連軍の行為とされていましたが、国内秘密警察の仕業とする見方もあります。
市街戦も続きましたが、11月4日にソ連軍によるブダペスト制圧で、動乱は一応の決着をみます。死者2500~3000人、動乱による難民は、20万人にものぼるといわれます。
●かつて、オスマン帝国やオーストリア帝国に支配され、1944年にはドイツに占領され、45年にはソ連により解放されたハンガリー、ここにおいてソ連に軍事制圧される歴史を経験しました。ヨーロッパにおける民族と国家の困難を思います。
●ドイツ占領時には、ハンガリーのファシスト党である矢十字党による恐怖政治も経験します。
その時代の罪も記念碑として残しています。国会議事堂のすぐ近くドナウ川沿いには、無数の靴が散らばっています。
当時、ユダヤ系市民が射殺され、川に投げ込まれました。矢十字党は、靴が貴重品であったため、靴を脱ぐことを命じ、それから撃ち殺したそうです。
ハンガリーにおけるホロコーストを象徴するものとして、このモチーフを残しました。婦人靴はもちろん子ども靴もありました。
人間が、戦争の下で走る狂気を示しています。
ヨーロッパにおけるナチズムとスターリニズムの深刻さを目の当たりにした初日でした。(2018.8.10[2])