●ダム完成から70年、追悼会は39回を数えます。今年は、ダム工事殉職者83名とともに、近隣の津久井やまゆり園事件の犠牲者19名の方に対し黙とうをささげました。
初めて参加する私にとって、心に残る追悼会でした。最も印象的だったのは、日本、中国、韓国・朝鮮の人々が主体的に作り上げている会であることです。「合同」の意味が初めて分かりました。これにはこの工事の歴史が関わってきます。
●追悼会と平行開催の中学生による展示会では、ダムの底に沈んだ村のことを、次のように記しています。
「83軒500人が暮らしていました。勝瀬村は津久井で一番というほど水田が広がる豊かな村でした」そんな村にダム建設の話が持ち込まれ、「その村の周辺にも影響が出るため、周りからも反対する人たちが集まり、ついに勝瀬村の人口の4倍、2000人ほどの人が県庁へ抗議しに行きました。ですがその声は届きませんでした」。
●強い反対の行動が粘り強く取り組まれたこととともに、強制連行が行われたことが、この追悼会につがっていると思いました。
戦時下(1940年工事開始)の労働力不足を補うために、中国や韓国・朝鮮の人々が強制的に駆り出されました。延べ360万人の労働者が動員されたそうですが、驚いたのはそのうち日本人は4割だけ、6割が中国や韓国からの連行であったことです。
その6割の人々の過酷な働き方は、日本人とは明らかな差があったことは以下の引用文が示しています。
●しおりに勤労学徒挨拶として寄稿されていた方の言葉を引用させていただきます。
「私は当時15歳で(中略)昭和19年6月北海道に援農として、またこの相模湖の地にはその秋の10月に勤労学徒として動員をされました」「そこで働かされていた中国、韓国・朝鮮の人々の労働は一番きついが重要な仕事を全部やられていたように記憶しています」。彼らと口を聞いてはいけないといわれていた、彼らの服装はとてもひどくセメント袋を体に巻き付けている状態などとも記されています。
当初、私は犠牲者=事故死と考え、なぜこんなに多いのかと疑問に思っていましたが、表を見て愕然としました。病気で亡くなった方が実に多く、環境の劣悪さと労働の過酷さを物語っていました。「投獄中」の「精神病」による死亡というのもありました。「投獄中」の記載は多く、あまりの過酷さに脱走や抵抗を試みたのでしょうか。また崖から飛び降りた人もいたそうです。
●地元の千木良小学校の合唱「友だちはいいもんだ」「きみに伝えたい」、北相中学校の「相模湖賛歌」の朗読もありましたが、参加の度に相模湖ダム建設の歴史を学ぶ彼らの声は胸を打ちます。
在日本大韓民国民団の方による民族打楽器演奏「追悼クッ」も体の深いところが揺さぶられるようでした。
雨宮知子さんの独唱も、聴く私たちの心にしみわたり、とりわけ「さとうきび畑」は圧巻でした。
「貴重な営みがここにも・・・」と思いながら、県立相模湖交流センターを後にしました。(2017.7.30)