●短時間ですが、中原市民館で開催中の第10回中原空襲展に行きました。いつも新しい発見があります。
今回心に残ったのは、中島邦雄さんの体験。疎開先の中島さんあてに家族から寄せられたハガキが展示されています。
中島さんは中原区にお住まいで、私は以前、新聞「新かながわ」掲載記事のために、中島さんの戦争体験を詳しく伺ったことがありました。
●中島さんは、1945年3月10日の大空襲で家族5人を失いました。学童疎開をしていた当時小学校4年生だった中島さん一人が残されました。その時は便りが来なくなったのをいぶかしく思うだけで、何が起きていたのかは知るはずもありません。
戦争が終わり11月、ようやく親戚の方が迎えに来ました。空襲で家族全員亡くなったと知ったのは帰京してから。小学生がどんな思いでそれを受け止めたのでしょうか。
遺骨もなく、東京都慰霊堂にお父さんの名前を見つけたのは1988年、空襲後43年も経ってからのことでした。お父さんの遺体に名札が残っていたので保管され、名前が記されたのでした。
名前もわからず焼かれた遺体が殆どだったことでしょう。
●中島さんの思いは、今回の展示(図録「東京大空襲展」2005年からの抜粋)でも語られています。
「必ず私と再会をすると(の)思いを込めて、父母としての励ましと慰め、人としての礼節を守るしつけ、そして家族の消息を熱く伝えてきたものと思います」「誰が遠く離れた子どもを残して、命を落とすことを予想したでしょうか」「あの空襲の夜、(中略)逃げまどいながらも、親や妹弟はきっと、遠く離れて暮らす私のことも忘れなかったに違いない」等の中島さんの言葉に胸が詰まります。
「今は叶わぬことではありながら、もし出会うことができたなら、あれもこれも話したい、私の筆不精から、ずいぶんと心配をかけてしまったことを許してもらいたいという思いが募ります」と。
「もう二度とこんな思いを誰にもしてもらいたくありません」と語り、平和な世界を実現する為に力を尽くす決意が「亡き家族へ送る返信です」と示されています。
●お父さん・お母さん・妹さんからのはがきを見ていると、空襲であっという間に家族全員を失った中島さんの無念さを思わずにいられません。
空襲の規模を知るだけでは感じ取れない、戦争で奪われた命、狂わされた人生を否応なく感じることになります。
最近、同じ中原区在住のSさんが、お母さん・弟と3人で、満州から引き上げる様にも触れることとなりました。あのSさんが、過酷な引き上げを生き抜いてきたのだと思うと、戦争の悲劇が具体的に迫ってきます。
戦争に触れる機会が多かったはずの私にしても、まだ分かっていなかったのでした。(2021.4.19)