●この数年、私の事務所近くの下沼部三社宮で行われる節分祭に参加していましたが、今年はコロナ感染症への配慮で実施しないことになりました。
そこで、規模を縮小して行う、平間の八幡大神に初めて伺いました。
●神社が「宗教」にとどまらず、様々な場面で果たしている役割など議論の余地は大いにあると思います。例えば頂いた小冊子には、「祝祭日には国旗を掲げましょう」と書かれ、「国歌君が代」についての解説も誇らしげに書かれています。
これらの取り扱いには違和感を覚えつつ、神社を場として展開される節分はじめ、七五三や厄除けなど、庶民の願いを託しながら継承されてきた行事に対しては、国民にも根付いた慣習として、それなりの愛着を覚えています。
また。初詣や先日のどんど焼きもそうですが、市民や子どもが集う場は共有したいなとも思っています。
●そんな思いで、毎年参加してきましたが、場所が変われば違いもあり、興味深いものです。
共通して、宮司さんが節分の由来などを話しますが、こういうお話が私は割と好きです。「『節分』、季節を分ける、だから節分は年に4回あります」「鬼は外と言って厄を払う。その豆を拾うことによって福を拾うのです」というようなお話ですが、何度聞いても、庶民の願いと知恵を感じるのです。
●例年ならここもやはり子どもたちの歓声に溢れたと思うのですが、今年はごく限られた参加者で、豆をまきましたが、それは拾いません。袋に入ったお菓子は撒かずに、一人一人に手渡しました。
あの受け取ろうとして必死に手を伸ばすシーンと歓声が無いのは寂しいのですが、今年は止むを得ません。
でも今年こそ、コロナを抑制し、「思い切り声を上げられるようにしたい」、「安心してつどえるようにしたい」の思いは一段と切実です。
古代から、厄介な病気などに対し、今と同じ思いで豆をまきながら平穏を願ったのでしょうね。
「暦の上では春」、この言葉を感じさせるとても暖かい節分でした。(2021.2.2)