君嶋ちか子

きみしま 千佳子
神奈川18区から政治を変える
働く場と学ぶ場に希望を!
神奈川18区女性・雇用相談室長前神奈川県議会議員
活動日誌

NEW!元米軍基地が平和のシンボルに! |君嶋ちか子|前神奈川県会議員

2026年5月14日

5月は、1日のメーデー・3日の憲法集会・8日の平和行進と続きます。

中原区は、平間公園で幸区からリレー旗を受け取り行進をし、中原平和公園が休憩地点となっています。この場所につくのはお昼となるため、以前は地域の新婦人や平和委員会の方がおむすびを作って提供してくれました。たくさんの方が作るので、色んなおにぎりがあって嬉しくいただいていました。県内でこのような提供をしてくれる場所は他になく、地元民として私は少々自慢でもありました。

このおむすびがコロナの時から無くなってしまいました。残念!

以前は、行進自体も中原区は平間公園から新城公園まで歩いていましたが、コロナの時に短縮され、武蔵小杉で終わりとなり、翌日は高津区のコースまで飛んでしまいます。

コロナ後も諸事情で「以前のように」とはいかないのでしょう。コロナは様々な場面を変えてしまいましたね。

平和館では毎年平和館館長と中原区長(今年は代理)から挨拶を頂きます。今年は、図らずもお二人とも平和館に関わるお話でした。そこで語られた話だけではなく、少しこの場所の歴史に触れてみますね。

日中戦争が激しくなった1937年頃から中原区には20社近い軍需工場がつくられました。平和公園の場所には大田区から東京航空計器が移転してきました。占領直後米軍がここを接収し、極東一の出版センターが造られ、朝鮮戦争やベトナム戦争時の謀略ビラなどを印刷していました。

1967年に東住吉小学校の児童が米軍関係者の車にひかれ死亡する事故がありました。その事故をきっかけに綱島街道に歩道橋をつける運動が起き、橋脚部分が基地内に及ぶため「その部分だけでも返還を」という要望も出され、1年半後に一部返還が実現し歩道橋も完成しました。

この時期は伊藤革新市政、長洲革新県政の下、高校増設運動も活発でした。「基地を返還させ県立高校と公園を」という市民の声に、川崎市や議員の働きかけも加わり1975年には全面返還が実現しました。

その跡地に、1980年には県立住吉高校、1983年には平和公園、1992年には平和館が造られました。

1982年には川崎市は「核兵器廃絶平和都市宣言」を行いました。その碑は公園の一角にあります。

平和館は平和の大切さを伝える常設展や特別展が館の主催で行われ、市民は「平和をきずく市民のつどい」を平和館と平和公園で繰り広げます。平和公園では「平和コンサート」・「平和を願う灯篭流し」などがこれも市民により毎年行われています。 米軍基地が、市民の運動とともに平和を象徴する施設に生まれ変わっているのです! 中原区の財産です。平和行進の中継ポイントとして、この上なく相応しい場所だと思います。(2026.5.8)

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